がんがんもんもん

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話したいことは山ほどあるけど

「日常」はモンスターだ。この世界の片隅にの話

以下、今年の1月に書いて公開をためらっていた文章になります。ちょっと長文欲が出てきたのと、とあるきっかけで読み返したら割といいかもなと思えたので載せることにします。


この世界の片隅にを見てきました。とても良い映画でした。途中から感受性がずるむけになって、なんでもないシーンでわんわん泣いてきました。
こうの史代さんのふんわりとした絵柄と、柔らかい色彩が合わさった空間は優しくて暖かくて、全てから守られたゆりかごのようでした。安心して泣いていいんだよ、って言われてる気分で。そして安心して泣きじゃくってきたのだった。

この映画は、すずちゃんの幼少期からの日常を淡々と描いています。それは幸せな記憶だったり、そうでないことだったり、それでも楽しいことだったり。
すずちゃんを取り巻く環境は何度も変わります。
子供の頃。ノリを作らなくなったとき。お嫁に行ったとき。戦争が本格化したとき。爆弾を受けたとき。戦争が終わったとき。
そうしてそのたびに、新しい何かが始まって、環境はがらりと変わって、はじめのうちは大変で、けれどそれはすぐに日常になる。
戦争の映画ではなかった。なかった、と言うわけではないけど、戦争は構成要素の一部であって、主題ではなかった。主題はきっと、日常のほうにある。
日常は何か。

すずちゃんは時々終わりを意識します。
正当な終わることのできる理由を求めます。
それは何に対しての終わりだったんだろう。戦争は終わった。すずちゃんは終わりを失った。終わりがないのなら、日常を生きなければならない。
実際、終わりへの誘いは何度もありました。「広島へ帰れば」「広島へ帰ってこい」「広島に帰ります」繰り返されるそれらを、すずちゃんは丁寧に拒絶しました。
そしてすずちゃんは終わらないことを選びました。すずちゃんは呉を、呉の日常を自分の居場所にしたいと願いました。「広島へ帰れなくなったから」ではないのが、大切だと思うんですよね。それを決めたのは原爆が落ちたその瞬間で、すずちゃんはその被害を知らなかった。
もしも「帰れなくなったから」呉に居続けることになったのだとしたら、いつまで経っても彼女は前に進むことができなかったでしょう。
ぼんやりとした彼女が大人になった瞬間は、決別の時は、ここだったような気がします。

もしも広島へ帰っていたら、彼女の望む終わりが得られました。
でも、終わりを渇望することを、彼女は辞めました。
笑って生きていくことを決めました。
「どうやったら優しく強くなれるのだろう」
その答えは見つかった。

すずちゃんは大人になった。
ぽやぽやしたままでいたかった。
どこか抜けたままでいたかった。
それは叶わなかった。
それでも、そんな気持ちすら飲み込んで日常は続いていく。
日常とはモンスターだ。いつかすべてがそいつに飲み込まれて、どんな異常な環境だって日常になってしまう。

たとえばいま戦争になったって、同じように日常が始まるだけなのだと思います。
どんな環境だって、そこには暮らしてる人たちがいて、劇的ではない当たり前の生活を送ってる人たちがいる。日常ってなんなんだろうね。

それじゃあ続きはまたいつか。

 

の、いつかがやってきました。時は過ぎて12月です。ほぼ一年寝かせたわけですね。
今年、Jアラートというものが鳴りました。そうして思い出したのが、この世界の片隅にでした。Jアラートはまだ非日常です。でもそれはやがて侵食していって、日常になります。私はいま怖くて仕方ありませんが、その怖い気持ちも、やがては慣れて薄れていきます。あーまたか、と思えるようになる。なるでしょう。
体感で切り替わるのは、一体いつごろになるんだろうなあとぼんやり。
非日常は非日常のままで、できるなら来ないでいてほしいものです。

一年くらいブログを放置して(途中から非公開にして)いましたが、なんとなく欲が出てきたので、ちまちまとアニメやら漫画やらの感想とか面倒くさい雑感など書いていけたらなーと思います。読み直して多少記事も整理しました。
心機一転でよろしくお願いします。