がんがんもんもん

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がんがんもんもん

話したいことは山ほどあるけど

ノンフィクションを克服したい話

追伸 
最後まで書いて戻ってきたんですが、
ノンフィクションが苦手な理由が複合的すぎて、とんでもなくまとまりがないです。
微妙ではありますが、雑感としてあげておきます。
 
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事実は小説よりも奇なり。
とはよく言うものですが、私は小さい頃からフィクション、特に小説とばかり接してきたせいで、ノンフィクションへの耐性が限りなく低くなってしまいました。現実と向き合いたくねぇ!
 
イミテーションゲームという映画を見ました。
これはイミテーションゲームを見た結果書き始めた文章ですが、感想ではありません。むしろ、どうして感想がかけないのか、ということへの雑感です。
映画としてはものすごく良かったです。良かったです、って感想しか書けないんですよね。すごかったです。見てよかった。
ズートピアが「エンターテイメントを使って現実を描くなら」のお手本だとしたら、イミテーションゲームは「現実をエンターテイメントにするなら」のお手本でした。
 
ズートピアの感想で私はあーだこーだ色々と書きました。
それがノンフィクションになった途端、なにも言えなくなってしまうんですよね。それが実際に誰かの経験したことで、その人はこうして後世で映画になって、何かメッセージを伝えるために生きたわけではないから。
いや、もちろん物語として再構成するにあたって、画面づくりにあたって、演技にあたって、演出にあたって、制作陣が伝えたいことがあってメッセージ性とか色々あるのはわかるんですが、それよりも、それが事実である、っていうことが私の頭を圧迫しちゃうんですよね。
 
事実として受け取りたい自分。
物語として受け取りたい自分。
 
事実には感情も物語もありません。(というとやや語弊がありますが)
事実を知ってどう思うかは自由です。笑ってもいいし、泣いてもいいし、怒ってもいい。事実に物語があるのではなく、自分たちが事実を解釈することで物語が生まれるのだと私は考えています。ひとつの事実にはいくつもの感情と物語があって、自分なりの考えとスタンスがそれぞれ持てます。
 
物語には作者の想定した感情と展開があります。
物語は用意された展開に乗るだけで、色々な感情を楽しむことができます。私は、作者がその感情を描いた理由を考えたり、展開や構成を分析して、どうやってその感情に至ったのか、どこを頂点にするためにどう持ってきたのか、なんかを考えるのが好きです。が、それはおまけのようなもので、普通に見るだけで普通に楽しめます。
 
そして、ノンフィクションとして再構成された物語には、事実に制作陣の意図が入り、物語になり、感情が生まれます。
このシーンで感動させたい。それに向けてここは圧迫。ここで開放。ここで音を入れて、ここからは無音にして。そして私は感情や演出にめちゃくちゃ弱くて充てられやすいです。演出の意図を読み取るのは苦手ですが、演出に感情を操作されるのは得意です。ほら泣けよってシーンでほぼ泣きます。
 
その結果、
事実として見て思考しようとしている自分
 VS 
物語を分析しようとする自分
 VS 
制作陣の意図により作られた感情に翻弄される自分
の戦いがほぼすべてのシーンで勃発して、脳みそが3倍動くのでもれなく死にます。
 
カタルシスを目的としたシーンがあるとします。
私A「こんなことがあったんだ…大変だったんだな…悲しいけど仕方ない…」
私B「時代が変わるごとに色彩を変えて説明がなくてもいつだか直感で感じ取れるようになってるのすごい」
私C「うわあああああカタルシスだあああああ泣けるうううううう」
 
ぼっふんっ(パンクする音)
 
情報量が詰まって情緒豊かな、いい映画であればあるほどパンクします。イミテーションゲームはパンクの嵐でした。途中で止めてtwitter開いて呟いて落ち着いてから戻るくらいには頻繁にパンクしてました。
私Bと私Cはまあフィクションの映画見る時にも大体一緒に動いてるんですけど、私には2人が限界で。5人くらい同時に動かせるようになりたいですね。脳内ポイズンベリーのごとく。
 
 
さらに、現実から逃げ続けてきた私にはノンフィクション分解酵素がありません。
シーンごとにわけて、介入して噛み砕いて解釈をすることができないんです。人生は続く。起承転結はない。流れを区切ることもそこの意図だけを抜き出すこともできない。事実としてそこにあるものは覆せないから、逃げ場もない。だからそのまま全部まるっと体の中にいれるしかなくて、結果頭がショートします。
混乱にまみれたtwitterを見た方はわかるでしょう。あれが思考回路はショート寸前ってやつです。頭が熱くなってひえええってなるんですよね。
 
ノンフィクションによくある、エピソードを語り終わったあと、ふわっと、切れ目なく、その後この人はこんな感じの人生を送って何年に亡くなりました、みたいな締め方も苦手で。
人生の、センセーショナルな部分だけが、エンターテイメントとして消費される。
面白い部分だけでは終わらないから。人生の終わりは死だから。続いていくから、切れ目がないから。
仕方なく、物語にするために、一部だけ切り取って、世界は続く。
その途方もなさが怖くて、恐ろしくて、エンドロールが欲しくなる。なんかもう私の人生に起承転結をつけてピリオドを打ってほしい。今どのへんにいるのか知りたい。生きるのが怖い。
みたいなところまで思考が飛んで、ノンフィクションを見たあとには死にたさと加熱した頭が残ります。明らかに向いていない。
 
ズートピアは、あるシーンから物語を収束させるために、一気にフィクションになり、そこから先は理想を描いたファンタジーになります。ネタバレは控えますが、多分あの辺だろうなーと感じる人も多いと思います。そして、逆にそれまでが丁寧に現実を描いていたから、そのあからさまに作劇的な都合の描写にもやもやしたという人もいました。わかるわかる。
でも私は、そうして強制的に、きちんと物語として決着させてくれたから、受け入れて楽しめた感じがあります。そうじゃなかったら多分なんでこんなところでまで現実見なきゃいけないんだよ………って心が死んでいた。実際途中半分死にかけてました。
 
 
文章でなら、ノンフィクションの作品も読むことができます。よくないなーとは思いつつ、脳内フィルターを通して自分の中でフィクションレベルをあげて飲み込んだりもします。キャラクターを動物にしてみたりとか、アニメ絵で想像するとか。なるべく現実と引き離す。頭の中で強制的にメタファーにしてしまう。文章にはある程度自分で再構成する余地があります。
 
ですが、映像だとそうもいきません。映像ってすごいですよね。視覚と聴覚となんか色々はちゃめちゃに使って脳みそにダイレクトアタックですもん。あと自分のペースで読み進められなくて相手に身を委ねるしかないっていうのも。
 
映像だとしても、古くてもう真実がわからなくなってるような大河ドラマレベルの話とか、焦点を一人に絞らず事件全体を描いてる作品なんかは平気です。神話になってしまっているからです。
近年のものや個人に焦点を当てたものだとしてもドキュメンタリーなら割と見ることができます。平気な理由は多分、ある程度事実を事実として描いていて、本人が本人として語っているからです。
現実を元にした、他人の人生を脚色してパッケージング化してエンターテイメントとして出されたもの、が苦手なんだと思います。
 
三次元のアイドルにハマれないのもその辺が原因な気はしてます。他人の人生って、どこまでエンターテイメントにしていいんだろう。芸人の「芸」や「喋り」、歌手の「歌」を消費するのは、それは技術を売っているから気にならないんですが。アイドルが売ってるのって、どうしても、「人生」って気がしてしまって。まあ芸能人や俳優や声優もそこらへん曖昧ですが。
顔の見分けが苦手なことも相まって、あまり三次元にはまらないんですよね。
 
 
結論から言うと、ノンフィクションの楽しみ方を教えてください…。
再構成されてる以上、制作陣の意図を重要視したほうがいいんですかね。同じ人に焦点当てた違う作品見比べてどう描写されてるかとかの視点なら普通に見られる気がします…目的を持って見るのなら…でもそれって研究であって娯楽ではないですよね…
うーん、もっと何事も気楽に見られるようになりたいです。ノンフィクションも楽しめたら、楽しめるものめっちゃ多くなるじゃないですか…現実が楽しくないんだから空想でくらい楽しみたい…いやでもノンフィクションって空想なのか…
 
とりあえずエンターテイメント小説を読んで心の平静を保ちます!
アヒルと鴨のコインロッカーやっぱめちゃくちゃ面白いぞー!
 
それじゃあ続きはまたいつか。