がんがんもんもん

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話したいことは山ほどあるけど

百合として萌えられて思ったこと

伸びたものの次って、何を出したらいいのかわからなくなるよねって話を友達として、その時はふーんって感じだったんですけど、こんなに早くその時がくるとは思わなかった。さらにいえば、パーソナルなことしゃべった直後にいつもどおりのオタク感想記事だすのもなんか…なんか…となったので、箸休め的に百合について思うことをつらつらしゃべる。

わたしはこの間、女から女への重ため感情ブログを書いてややバズり、そのツイートへの反応サーチの最中に「これを書いたらそういう感情として消費されるの分かってるのになんで今書くんだ」(意訳)という意見を目にした。実際、割と雑多にいろんなCPと当てはめて萌えられたり、百合〜〜〜〜って拝まれたりしていた。
いざ自分の思いを百合として消費されてみて、それでもわたしはぜんぜん嫌な思いをしなかった。しんどい感情をエンタメとして喜んでくれる人がいることで、まあこの感情で喜ぶ人がいるなら抱いた意味もあるか…みたいな感じに逆に落ち着いた。
それに、わたしの感情はわたしのものとして、誰かに百合だと言われようが、変わらず私の中にあるから。どんなにあの文章に萌えたところで、本当のわたしとあの子を知ってるのはわたしたちだけだから。という、これまた百合強度の強い結論が出てしまった。

わたしは、生きてる人間の生の感情を「百合」として消費することが、あまり得意ではなかった。過去形なのは、今回の経験を通してすこし気持ちが変わったからだ。ちなみに、自分がうまく飲み込めないだけで、他人がそうしたり消費することにはなんの感慨もない。

わたしは百合を「その子とその子の間にしかない関係性」と定義している。だから、恋であれ愛であれ憎悪であれ、もうなんでも雑多に二人の間に唯一の感情があれば百合と呼んでしまう。その雑さというか、感情のラベルを貼り替えてしまう行為を、生きてる人間相手にやってもいいのかと、ためらいがあった。
でも、いくらわたしが感情のラベルを貼り替えて百合だ百合だとほくほくしたところで、その子が抱いている気持ちは何も変わらない。もちろん、それが嫌な人もいると思う。勝手に定義するなって思う人もいるだろう。でも、その人の感情はその人のもので他人にどうできるものでもなく、伝えた感情をどう解釈されるかわからないのはどんなときでもかわらない。
まあもちろん、真剣な一対一の相談のときに「百合じゃん!」って喜ぶのはちょっとどうよって思うけど。

いまわたしが最も入れ込んでいる、バーチャルYouTuberというジャンルは、女の子のことがすきな女の子で溢れている。そして、女の子から女の子への生の感情で溢れている。この生の感情はリアルのアイドルとか声優とかでもあるのかもしれないけど、わたしはそこを通っていないのでわからない。
そのリアルな感情を見ると、萌えるとか尊いとかより先に「ごめんなさい」と思ってしまう。ほんとうは二人だけのものだったのに、盗み見てごめんなさい。
壁になりたいとか観葉植物になりたいとかの言説が最近流行っているけれど、わたしの場合「わたしの観測しないところで二人で幸せになってください」が近い。観測者がいて始めて百合になるのか、二人がいれば百合はそこにあるものなのか、難しい問題だ。
見せるための百合と見られてはいけない百合が世の中にはあって、見せるための百合は「百合営業」とか「第三者の目を意識したいちゃいちゃ」なんだけど、一方見られてはいけない百合は「二人だけの秘密を結ぶ時」とか「感情をぶつける瞬間」とか「スールの誓いを交わす」とかになる。第三者がいたら成立しないものっていうのかな。見せるための百合が常に第三者からの目線を意識するのに対して、見られてはいけない百合は二人だけの世界になる。そして、見られてはいけない百合のほうが、百合としての強度が高い。かつて、見られてはいけない百合は、フィクションで神の視点を持たない限り、覗く事はできなかった。だからその感情に萌えようがなにしようが、それで傷つく人はいなかった。自分がその感情を相手から向けられて当事者になる場合もあるけど、その場合百合だのなんだの言ってられないだろう。
バーチャルYouTuberは見られてはいけない百合が見えてしまう。いや配信してるんだから、全部第三者意識してるでしょ、って思うかもしれないけど、それに隠れて、あ、これ、本物のやつだ、が見えてしまう瞬間がたしかにある。プロとアマチュアの境目みたいなところにいるから起きるのかもしれない。
しかも、当人たちが、それに喜んだり萌えたり尊さで何も言えなくなるこちらを観測できてしまう。怖い。他人の感情やコンプレックスを踏みながらその上でタップダンスをしたくない。だからって、彼女たちを癒やす立場に立てるわけでもない。それはもっと仲のいい友人がすべきことで、それを履き違えるとクソリプおじさんになってしまう。じゃあわたしは、それを見たときに何をすればいいんだ?なにもできない。そう、本当に、なにもできない。

というようなことをつらつらと考えていた。
実際、わたしは結構なコンプレックスとか重い感情を百合として消費されることを別になんとも思わなかったので、Vtuberの子たちもそうかもしれない。そうじゃないかもしれない。人によって違うだろう。あの子達はひとりひとり違う考えを持った存在なのだから。
ただ、私のあれはどちらかというとチューニングした「見せる百合」なのでそうじゃないほうの感情を使われたときにどう感じるかは別だろうなあと思う。たとえば告白してきた女の子の話とか、それを百合体験!として話す勇気は私にはない。

まあ何が言いたいって、百合を覗き込むとき百合にもまた覗かれていることを意識したいなって話でした。
この話はここでおしまいです。